シン・エヴァンゲリオン劇場版という御褒美
旧作以来のファンにとって、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」(2021年)は、御褒美のような映画だった。なお、ここでは「旧作」は、「新世紀エヴァンゲリオン」のTVシリーズ(1995~1996年)と、それに続く劇場版(1997年)を含む言葉として使う。
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何が御褒美だったのか。
1つには、鈴原トウジ・相田ケンスケ・洞木ヒカリら、シンジらの中学時代のクラスメイトのその後を見ることができたことだ。旧作の物語前半では、シンジ・レイ・アスカとの共演も多かった彼・彼女らだが、おそらく3号機の事故以降ほとんど登場しなくなり、サードインパクトや人類補完計画でもどうなったか具体的には描かれなかった。本作で、成長して大人になった彼・彼女らを見て素直に嬉しかった。
そしてトウジらの生活が旧作以来のファンの現状に重なり、しかもそれが肯定的に描かれていたことが2つ目の御褒美である。トウジとケンスケはそれぞれ第3村の中で役割を与えられ、またトウジとヒカリは子をなしていた(ちなみに、名前をちゃんと新幹線の愛称から取っているのも、旧作以来のファンには嬉しいところ)。ニア・サードインパクト後の世界という過酷な環境下ではあるがその生活に悲壮感はなく、仕事や子育てに伴う責任と疲労とささやかな幸福が、前向きに描かれていた。旧作からの二十数年で、ファンの方もすっかり大人になってしまった。その大部分の人間が仕事をして、家庭を持っていることだろう。第3村のシーンは、トウジらと同じように仕事と子育てに励むファンへの、ねぎらいのようにも思えた。
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3つ目には、旧作のオマージュが多かったことである。例えば、シンジとゲンドウが対話する電車内のシーン、シンジとアスカが砂浜に横たわるシーンなどは、旧作を見てきた人間はニヤリとするであろう。リツコさんのゲンドウへの躊躇ないヘッドショットは旧作の意趣返しであろう。24年分の恨みつらみがこもった2発であった。ミサトさんがまたしても脇腹に銃撃を受け、最後には爆死してしまうことには苦笑した。おそらく自分が気が付いていないオマージュもたくさんあることだろう。25年間待ち続けてきた人間だけが分かる面白さを仕込んでくれたことに感謝する。
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そしてこのような旧作のオマージュは演出にも及ぶ。すなわち、本来画面に映るはずのない原画や撮影機材、スタジオセットなどを描くことで、エヴァの世界は「作り物」であり、登場人物の言動も演技であることを敢えて強調する演出の存在である。ここまで執拗なオマージュには、単なるファンサービスを超えた、物語の「やり直し」の意図が感じられる。「やり直し」の対象は、物語とファンとの関係である。
旧作のTVシリーズの最終回は、シンジが自身の存在意義を見出したところで終わった。旧作の劇場版では、シンジは、サードインパクトで失った肉体をレイとカヲルに導かれて取り戻した=他者との関係を取り戻したが、最初の他者との関係はアスカからの否定的な言葉だった。いずれも今日まで議論が引き続く、ファンを置き去りにしたような終わり方だった。
今作、シンジは、様々な登場人物をエヴァの「スタジオ」から退出させていく。観客はまるで、自分もシンジに手を引かれてエヴァの世界から離れる感覚を覚えたはずだ(ほとんどのファンは自分をシンジに重ねてエヴァを見てきたと思うが、この場面ではシンジに手を引かれる側に自分を投影していたのではないか。不思議なものである)。旧作終劇後もファンの中に残った感情を「エヴァの呪縛」と呼ぶならば、あの瞬間はまさに呪縛からの解放と言っていい。これが4つ目の御褒美である。
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私は今作を肯定的に評価しているが、不満を言いたい部分もある。おそらく、褒めるようと思えばいくらでも褒めることができるし、貶めようと思えばいくらでも貶めることができる作品だと思う。とにもかくにも「シン・エヴァンゲリオン新劇場版」は、「新劇場版」シリーズの最終回であるとともに、旧作を含めたエヴァンゲリオンシリーズ全体の最終回であった。